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JR採銅所駅
⾹春町の有形⽂化財に指定されている洋⾵の⽊造駅舎は、全国の駅の中でもとても⼈気のある⼤正モダンな駅舎で、春は花壇に咲く花や駅ホーム周辺に咲く野花と桜が魅⼒です♪
香春町地域おこし協力隊 移住・交流の拠点である採銅所駅舎内「第二待合室」に勤務し、「香春町への新しいひとの流れをつくる」ことを共通のミッションに、第二待合室の運営、移住相談や交流イベントの開催、情報発信などに取り組まれています。
JR採銅所駅
〒822-1401
福岡県⽥川郡⾹春町採銅所
(JR九州案内センター)
採銅所駅舎内「第二待合室」
〒822-1401
福岡県香春町採銅所2595-4
(JR採銅所駅舎内)
開館時間 9:00〜17:00
休館日 毎週水・木曜日および年末年始
香春のびっくり! れきしあなたは知ってる?!
意外と知られていない、香春町の歴史をご紹介します。
- 奈良の大仏は
香春岳の銅でできた?? - 聖武天皇の詔により造立された“盧舎那仏(るしゃなぶつ)”通称、奈良の大仏は天平勝宝四年(752)4月に「大仏開眼供養会」が盛大に厳修され完成しました。当時の日本の国力や技術力をはるかに超えた国家的プロジェクトには、渡来人の持つ最新の技術とともに、当時主要な銅の産地であった香春岳の銅も多く使用されたという歴史が残っています。奈良の大仏は、香春岳の銅とともに、香春に住む渡来人の技術なくしては完成しなかったともいわれています。
- 最澄と香春神社
- 比叡山で修行を続けていた最澄(伝教大師)は、桓武天皇に願い出て、延暦23年(804)、還学生(げんがくしょう)として中国に渡りました。しかし当時の渡航は命賭けで、最澄自身も暴風雨に遭遇し難破するものの命からがら博多にたどり着いたと伝えられています。再び渡航する間、朝鮮半島から移り住んでいた人が多くいた香春を訪ね、香春神社の神に渡航の安全を祈願した結果、暴風雨の中、香春神社の神と竈門神社の神に助けられ、無事帰朝できました。その恩に感謝し、大師の庇護を受けた香春神社は大いに栄えたといわれています。
- 県内唯一の宮内庁
一等陵墓参考地 - ⾹春町鏡⼭には、宮内庁が管理する墓地があります。これは福岡県内唯⼀のものであり、河内王の墓といわれています。 河内王は天武天皇の孫といわれ、⼤宰帥(だざいのそち)として都より下向中、鏡⼭に住む⼿持⼥王(たもちのおおきみ)と恋に落ち、死後ここに葬ってほしいという遺⾔の下に墓地が作られたのがここといわれています。⼿持⼥王が詠んだ切ない恋の歌は万葉集に収められています。このことから鏡⼭は恋の⾥として注⽬を浴び、新しいパ ワースポットとなっています。
- 伊能忠敬と
香春町 - 全国を測量し、正確無比な日本地図を作った伊能忠敬。当時、交通の要所であった香春町に宿をとり、田川地方を測量していました。町内には宿泊した宿の記録もあります。測量日記には今と変わらない地名がたくさん登場します。
- ⻘銅鏡と耳飾り
- ⻘銅鏡は宮原遺跡、弥⽣時代の⽯棺から発⾒された⼀つです。内⾏花⽂鏡と⾔って中国の後漢時代に作られた鏡で⾯の⼤きさが19.5cm、鈕には四葉座の⽂様がありその外側には「⻑⽣宜⼦」や「寿如⾦⽯」の⽂字(⼦孫繁栄など祝い⾔葉)も書かれています。⽿飾りは、⻑畑古墳から出⼟したハート型垂飾付⽿飾りで5.8cm、重さ6.3gあります。⽇本では⾦がほぼ取れないころの純⾦製の煌びやかな⽿飾りで現代のイヤリングに全く引けをとりません。この地は、「豊前⾵⼟記」等にも記されていますが朝鮮半島との繋がりの強い地域であり、古代の⾹春の⼈々は積極的に⽂物を取り⼊れ、今以上に海の向こうを⾝近に感じていたようです。
- 香春盆踊りと
豊後大友氏 - 戦国の昔、中国地⽅を⽀配する⼤内⽒と九州の⽀配者⼤友⽒との間では凄惨な戦いが繰り広げられていました。両勢⼒の接点であった⾹春岳には⻤ヶ城という難攻不落の名城があり、天下にその名は響き渡っていました。⾹春岳を攻めた武将は、⼤友家の⾄宝と⾔われた⼾次道雪(べっきどうせつ)で、⾹春岳を守る知将 ⾚松厳⼼⼊道(※)(あかまつげんしんにゅうどう)と数々の合戦が⾏われました。
この戦いで命を落とした霊を供養したのが⾹春盆踊りの起源ともいわれ、⾹春岳攻防戦の話は盆踊りはもちろん、琵琶法師による語りなど娯楽のなかった昔、盛んに伝えられてきました。
(※)伝説上の⼈物と⾔われている
- ポーツマス
講和条約と香春 - 教科書でだれもが知る日露戦争。日本の勝利に終わったこの大戦争の講和条約が締結されたのが、アメリカのポーツマスで、一般的にポーツマス講和条約と言われています。日本全権大使は小村寿太郎で、これ以上戦う国力のない日本であるため、悲壮な思いで渡米したと伝えられています。この時、米国の要人に橋渡しをしたのがニューヨーク総領事であった内田定槌(うちださだつち)といわれる人物で、香春町にはゆかりが深く、定槌自身、香春町宮原で幼少期を送ったといわれています。宮崎県日南の小村記念館には小村と内田の写真などの資料も残されています。
文学碑めぐり香春には、ゆかりの文人達や歴史で知られた文物を顕彰した記念碑が数多くあります。
それらをめぐってみるのも楽しみです。ここでは漂泊の俳人種田山頭火と、万葉集の歌碑をご紹介します。
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種田山頭火
種田山頭火は、彼を支えた現・糸田町の医師、木村緑平を何度も訪ねたことから、香春町にもよく足を運びました。香春岳や町の自然を詠んだ句が碑に刻まれています。
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香春晴れざまへ鳥がとぶ
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みすぼらしい影とおもふに木の葉ふる
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香春をまともに乞ひ歩く
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谺谺するほがらか
すくいあげられて小魚かがやく
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香春へ日が出る雀の子みんな東に向く(木村緑平)
⾹春⾒あげては虱とっている
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鳴きかわしては寄りそふ家鴨
枯木かこんで津波蕗の花
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ふりかへれば香春があった
そこもこゝも岩の上には仏さま(高座石寺)
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あるけばきんぽうげ すわればきんぽうげ
香春町史跡案内図
~知的な散歩のために~
香春町教育委員会発刊の香春町郷土史会編「香春町歴史探訪」
知的な散歩のために別刷の香春町史跡案内図を掲載しています。
香春町を散策する際は、プリントしてご活用ください♪(外部リンク)